今泉の伝説

今泉にある”言い伝え伝説”

※1961年(昭和36年)発刊の毛里田村誌より”今泉の言い伝え伝説“を転記しました。句読点、句点、漢字、送り仮名をはじめ全て原文通りに転記してあります。
また、この機会に同じ毛里田村誌に掲載されてました市場の名、鈴振橋、東方瑠璃光薬師如来の3点を転記してあります。

▼下 馬 橋▼
太田市韮川(旧東金井韮川村)から猿楽への路と東今泉より矢部への道路との交叉点に小さな土橋がある。土地の者はこれを下馬橋と呼んでいる。昔一人の立派な武士が乗馬で曹源寺前を通りかかると一天俄かにくもり雷鳴電光が甚しく馬は進まないため武士ついに我を悟って下馬するとたちまち黒雲も去り雷鳴も止んでしまった。このため後人はこの橋に至ると必ず下馬した。下馬橋の名はこれより始まったと云われる。
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▼鍛 冶 ヶ 入▼
大字太田金山山麓北の地で八ヶ入と呼ぶ場所がある。新田氏が金山住主だった頃備前三郎国宗がここに来て刀工を試みたことから多くの刀鍛冶が集まって新田の名刀を鍛った。これから茲に金山鍛冶廓が出来その後金山城廃亡と共に彼等の子孫は農鍛冶となって四散した。現在白山神社に小祠があるがその附近には今でも金糞が埋もれていると云われ又鍛冶の井も残っている。誰がうたったものか明らかでないが「鍬先に火花を散らす鍛冶ヶ入」と今日の八ヶ入は鍛冶ヶ入から転呼したものと思われる。

▼今泉八幡宮の石の根杉▼
金山の北東麓毛里田村大字東今泉に一小祠があるがここを称して八幡宮と云う。土地の古老の説によると、金山城四方がための八幡神社の一つで金山実城から見るときは鬼門の方向に当るので敵の難をさけるため建立したものと云われている。又この社の附近に矢の根杉の古木があるがこれは戦国時代の事敵軍が激しくせめ寄せた際数知れぬ矢がこの杉に立ったためと云われている。
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▼鈴 振 橋▼
大字丸山の西に小さな石橋があるが、この橋で21日間鈴の音が絶えずなっていたことがあった。このため誰云うとなくこの橋を鈴振橋と呼ぶようになった。その昔ここに一人の御守が鈴を振りながら往生したものでその後犬などがここでその鈴をくわえて振った音だろうと思われる。
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▼市  場  の  名▼
鎌倉幕府滅亡後延元年間に亘り関東地方も乱れ所々に戦があり武人は戦備のため松明を要することが多く附近の土民は、その需要を充たそうと四方からこの地に集り商う者が多くなったと伝えられその後時勢の変遷とともに松明市場はおとろえその名前だけが残ったものである。

▼東方瑠璃光薬師如来▼
大字只上小学校の北東に字畦地という地名がある。その昔阿瀬地という大沼があり、どういうわけか夜毎この沼の一部から金光を発しこのためこの一帯昼のようで誠に不思議なことだった。
ある時慈覚大師がここを通りかかると早や夕日は西山に沈もうとしており大師足をとめて四方の夕景をながめていると阿瀬池の水面が赫々として電光の如く、あまり不思議に思い翌暁池の辺りにいき暫し水面を見まわすのに阿字の梵字が浮きだす稀有の事と思われ里人の中の泳ぎ上手のものに水底をさがさせると一箇の仏首が取り上げられた。大師は供養のため一昼夜断食していると不思議なことに御仏首より光明を放しまるで朝方日が出る如く円明になる事は薬師如来の御首出現のためと悟った。
大師はすぐ池辺の枯木を集め自ら尊像を彫り不動堂に安置し開眼供養をしたと云われている。現在地本院長泉寺境内にある東方瑠璃光薬師如来がこれだと云われ又いつの時代かは不明であるが只上も唯明、只明、畦地を阿瀬池と説したこともあったと古老は語っている。

消えていく東田圃の風景に思い出いっぱいの郷愁を!!
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