○文化9年の絵地図です。文化9年の今泉村住人は116人、家数36軒
文化九年(1812年)の今泉の領主は旗本である落合様の領地(知行地)だけではなく、他に旗本の野々山様と小笠原様の知行地が存在しておりました。 ※知行地とは
地図にも記されてありますように三者の領地(知行地)を合わせて今泉村の知行地取り石高は、八百六拾石四斗九升三合です。
文化九年の今泉村の名主は藤十郎でその管轄下の住人は116名(男62人、女52人)、家数36軒が存在していました。その他に今泉村の住人ではありますが、野々山様と小笠原様の知行地の百姓となっていた家数がありました。その人たちは野々山様と小笠原様の配下である名主2名の管轄下にありました。地図にはその人達の家も描かれています。その人達等も今泉村の住人であることには変わりありませんでしたので、住人116人、家数36軒よりも実際にはもっと多くの住人、家数がありました。(領主の落合様、野々山様、小笠原様が閲覧されますので、地図に描かれてあります家数や建て位置は正確です)
※江戸時代の石高制によると、
1石は10斗=100升=約180リットル。米1石の重さは約140~150kg。
1斗=10升、1升(桝)=10合、
1俵の量にはまだ統一性がなく、地域や時代によってさまざまだったようです。でも何となくではありますが、3斗半(3斗5升)位で通っていたのではないかなと思います。これらの計算で換算してみますと、八百六拾石4斗九升三合という石高は2,450俵前後位になるのではと思うと、あくまでも大雑把ですが結構凄いと感じて来ます。(実際にはこれだけの収穫高があったかは分かりません)
1俵=4斗=40升=400合(明治になって1俵は4斗と制定されました)
〇曹源寺本堂とさざえ堂が存在していた文化9年
地図に焼失前の曹源寺本堂が描かれてます。また、さざえ堂も描かれています。さざえ堂が建立されましたのは、寛政5年(1793)と言われていますので、文化9年は19年後になりますのでこの地図を描いた時は、まだまだ新築の香りが多少なりとも漂っていたのではないかと想像します。この文化9年は建造されて19年位しか経てないので、近隣各村、山田郡周辺各村、上州各地をはじめ、野州、武州ほか諸国から連日のように一目見たい人達が押し寄せ、現代の歩行者天国並みの賑わいに活況を呈し、すぐ近くにある太田桐生順道を行き交う旅人たちの多くも立ち寄ってくれてたのではないかと、思うのであります。
当時の今泉村住人にとって【さざえ堂】の出現は驚きと感激と嬉しさに溢れ、究極の自慢ネタとして胸に宿し、生活をしていたのかもしれないと勝手に想像するのであります。様々の想像が浮かんでくる中には、もしかしたら文化9年からの15~20数年後頃には、太田桐生順道を通りすがる国定忠治も子分を数名引き連れ立ち寄って、さざえ堂の見たこともない建築構造技術の高度さと全体の景観に驚愕して子分たちに「すげぇじゃねぇか、な!!」と威勢を張ってくれた状況があったとしたら何となく嬉しい気分になります。
絵地図を眺めていると、遠くへ遠くへと離れ過ぎ去り続ける今泉村の一日一日の、あの時・その時のいろんな事象を想像したくなるのであります。
本堂は嘉永5年(1853年)に焼失してしまいました。アメリカのペリー提督が浦賀に黒船で訪れる1年前のことです。この頃の世の中の出来事はペリー来航しかなかったかなように歴史の授業から錯覚をしてしまってるけど、そんなペリーの出来事も社会の出来事の一片であっただけで、同時期にほんの身近なところでの本堂焼失の大事件があったことを思うと、個人的には衝撃事象の無念さにペリー来航よりも大事件と捉える思いが心に沈積するばかりである。寺には貴重な歴史的価値のあるものが沢山あったことだろうと推測するに残念極まりなくなる思いになる。
また曹源寺境内の広さは現在の2~3倍はあったようで、地図が当時の様相を実証してくれています。
〇210年前と殆ど変わりなかった東田圃の景観
絵地図を見ると時代の変遷に伴って、現在までの長い時間の中で多少の道路位置とか田圃の区画等の変化により少しづつの変貌はして来てはいるものと思いつつも、210年前のこの絵地図と見比べても1年位前までの東田圃風景の原形は,200年以上前と殆ど変わりなく現在まで延々と農家の人たちによっての農作業の汗との結晶により田園風景一帯の景観を守り続けられていたことが分かります。農家の皆様にありがとうございますと一言で感じるには大変申し訳ないと思うのであります。とにかくありがとうございました。
地図上には鹿島様、赤城様、天神様、愛宕様等の今泉村住人の平穏無事を願う守り神が点在しており、この時代の今泉村の事何一つ知らずとも、これらの村社守り神様たちには何となく漠然ではありながらも、凄く濃い郷愁と人間模様への風情をこの上なく感じて来ます。この神様たちは、今泉村すべての民の願いを背に負って幸せへの導火線となり一所懸命に使命を燈していたんだろうなと思うと感謝のみである。